やっぱり枯れてきたな、という話


先日のナルゥ、もりもりとの会は、久しぶりに自分を再考するいい機会であった。
無論、ヲタクとしての自分である。



まぁ、その主題はオタク世代論的なものなんだけど、今日は自分がやっぱり枯れてきたんだな、という話をひとつ。


先日の会の中で、俺がシリアスなストーリーものを見るのはしんどい、クラナドは杏や風子や汐の萌え萌えなシーンだけでいい、
あとはらきすたとかけいおんとか、みたいなことを言ったら、
じゃあ咲やストライクウィッチーズはどうか、みたいなことを言われたんですよ。
しかし、答えは明確に「否」。前者と後者では全く異質な領域だと思うんだが、、、なぜ一発で理解されない?


俺の中では「クラナド」の日常シーン、「らきすた」「けいおん」には、
今求める、癒し的な萌え空間が広がっているのに対し、
「咲」「スト魔女」は見るのが疲れる、疲れそうな、心引かれない領域なんですね。
しかし、例えば最近の萌え系主要作と言えば、「咲」は絶対に欠かせないはず。もしかして変なのは俺か?


という命題をしばらく考えていたんですが。


まぁ京アニGONZOの違いだとか、萌え系4コマが好きなのね、とか言われたら反論のしようがないのですが、
ここでもう一つ作品を挙げて、解釈の補助線としたい。


アマガミのアタック成功シーン(=ぷちエロのご褒美シーン)が別に嬉しくないのである!!


俺は変態紳士になりきれず、アマガミも積み気味なのですが、
ここで、アマガミ、咲、スト魔女の共通項と、それに反する萌え系4コマ的世界観の共通項が見えてきました。
すなわち、直接的なエロさを、萌えという感情の中で受け入れられなくなってきているのかもしれない、と。


ぶっちゃけ、エロスウザい、と。あと男(男視点)の存在もウザい。
可愛い女の子がキャッキャうふふしているのを遠くから眺めて、癒されたいんだよ、俺は!
だから男とか、男の視点とか要らないんだよ、パンチラとかはいてないとか要らないんだ!


百合は女性作家今野緒雪先生のマリみてが可。そもそも百合は女性の文化なんだから、咲やスト魔女は邪道なんだ。
ひだまりスケッチ蒼樹うめてんてーだって萌え系の女性作家じゃないか!



はぁはぁ。
ちょっと冷静になろう。


でも本当に、そーいう直接的なサービスシーンに心引かれないんですよねー、最近。
むしろノイズに感じるわけで。シリアスな展開もノイズ。エロスもノイズ。
ただただ、萌え萌えとした空気に癒されたい。。。


この文章でもたびたび出してる、癒されたい、これが今の俺が求めてるものなのでしょう。
これってやっぱり、老い、とか、枯れ、とかだと思うんですよねー。




逆に言うと、萌え4コマって「萌え」だけを発露させるためには極めて優れたシステムなのではないでしょうか。
もう、一切合切のノイズがない。あずまんが大王からの伝統で、エロと無縁の感もあるし。


アニメの原作が枯渇して、ラノベ、エロゲに続いて、萌え4コマも片っ端からアニメ化される昨今ですが、
単に他に球がないから、という消去法の論理以外に、「萌え」=「癒し」な現代のオタ文化の一翼に的が絞られた
マーケティングの結果なのではないだろうか、、、などと妄想しつつ、疲れたので筆を置きたいと思います。


あー、俺も歳を取ったよなー。